マンパワー立国

2018-02-25   society  management 

この国を「技術立国」と呼びたい人たちがいる。たしかに他の国に比べたら、技術力はそれなりにあるだろう。だが、おれはこの国を「マンパワー立国」と呼びたい。

この国で技術が語られるとき、なぜか「技術」の話ではなく「マンパワー」の話になっていて困惑することが多々ある。

特に注意したいのは、

  • 町工場
  • 職人
  • ものづくり

ここら辺のキーワードが出てきたときだ。それらは技術以前にただの手段でしかないうえに、職人に至っては完全にマンパワーだ。

いつからかこの国には、マンパワーへの信仰みたいなものができあがってしまった。よく耳にするブラック企業エピソードで、

Excel マクロで仕事を片付けたら、上司に「ずるをしている」と叱責された

みたいな冗談のような話があるが、それもこの「マンパワー信仰」が元凶だろう。

結局この国では、あらゆる問題が最終的にマンパワーで解決される。街中に溢れるコンビニはその最たる例だ。コンビニ店員は「スーパーマンなんじゃないか?」と思えるほど、あらゆるタスクをマンパワーでさばく。 すべてがコンピューターによって自動的に処理される Amazon Go の対極にあるのが、日本のコンビニである。便利さの代償として、コンビニ店員のマンパワーが浪費されているのだ。

世間的に「技術」と呼ばれていたものも、結局はマンパワーでしかなかったのではないだろうか。たとえば、昔話題になった某二足歩行ロボットなんかがそうだ。あれも結局は人力パラメータ調整という名のマンパワーの塊でしかないのではないだろうか。まあ、実際の中身を知らずしてこういうこと言うのは問題かもしれないが。ただ、ボストン・ダイナミクスの本物の技術が使われた驚異的なロボットを見ていると、そう思わずにはいられないのも事実だ。

囲碁や将棋で人間が AI にまったく及ばなくなってしまった現在では、日本の「人力パラメータ調整という名の技術もどきマンパワー」は、もう完全に無価値になってしまった。にもかかわらず、いまだに多くの人々はマンパワー信仰に囚われたままだ。これでは真の技術立国や生産性向上なんてのは、夢のまた夢でしかない。

日本は人口が増加していた時代の「モーレツ社員」と呼ばれた人々の圧倒的マンパワーで優位に立った成功体験を捨てるべきである。 この国はそれで大きくなったのだから、それ自体が無価値であるとまでは言うつもりはない。 だが、これからの時代、マンパワーでは本物の技術には対抗できない。それを目指したところで、AI に駆逐されるのがおちだ。

したがって、マンパワーの排除は圧倒的正義だ。自動化・省エネ化に逆行する人間は、国賊レベルで叩かれるべきとすら思う。 この国にあふれるコンビニが、Amazon Go のように無人化・全自動化されるときが来たら、そのときがこの国の大きなターニングポイントになるような気がする。

もしこの国からマンパワー信仰を完全に排除できたら、日本は大復活を遂げられるかもしれない。いや、おれはそう確信する。