別に漢字を間違ったわけではない。「論理思考」ではなく「論理嗜好」の話だ。
何年かに一度、ものの考え方が劇的に変わることがあって、その後の趣味嗜好がまるっきり変わってしまったことが何度かあった。その中でも今の自分の基礎となったものであり、もっとも劇的に自分を変えたのがこの「論理嗜好」だ。
論理嗜好と言っても、「やたら理屈っぽいこと」といった意味ではない。ここでの「論理」とは、コンピュータ用語における「論理」であり、対義語は「物理」だ。
付け加えると、
- 物理とはハードウェア
- 論理とはソフトウェア
である。
伝統的な WIndows PC は、OS が C ドライブに、データが D ドライブに置かれている。ただ、見かけ上の HDD が 2つでも、実際の HDD は 1台しか入っていない PC がほとんどだ。ではなぜ HDD が 1台しか搭載されていないにもかかわらず、C ドライブと D ドライブの 2つの HDD が存在しているのか。それはこれらが「論理ドライブ」であるためだ。つまり 1台のハードウェアを、ソフトウェアで 2台に分けているのである。
要するにこれは「決め」の問題である、「そういうことにしておく」ということだ。実際には HDD が 1台しかないが 2台あることにする、そういうことに決めておくのだ。
最近であれば iPhone の音楽アプリ、あれはまさに論理的なウォークマンだ。そこには CD やカセットテープ、ウォークマンは物理的に存在していない。だが論理的なものとして確かにそこに存在している。
論理的なものの利点として、現実空間を汚染しないという点がある。例えば、紙の本であれば場所を取るが、電子書籍であれば場所を取らない。部屋を汚染することなく、本を所持することが可能になる。これは論理的なものの大きな利点だ。
加えて、物理的なものを変更するのは容易ではないが、論理的なものであればそれを定義するのは我々の思考であり精神だ。我々の意志次第でいかようにもなる、おれはここに強烈な美しさを感じた。
このことに気づいてから、こう考えるようになった。世の中のあらゆる物理的なものを、可能な限り論理的なものに置き換えていけば、かつてないほど美しい世界ができあがるのではないか。おれが病的なまでに電子媒体に固執するようになった理由はまさにそれだ。
興味が湧いた人は、もっと “論理” 的に生きてみよう。